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名古屋地方裁判所 昭和42年(ヨ)1821号 判決

申請人 尾関広子

被申請人 山一証券株式会社

主文

一、申請人は被申請人の従業員の地位にあることを仮りに定める。

二、被申請人は申請人に対し、昭和四五年八月四日から毎月一五日かぎり、一か月金三四、二一一円の割合による金員を仮りに支払え。

三、申請人のその余の申請を却下する。

四、訴訟費用は被申請人の負担とする。

事実

第一当事者双方の求めた裁判

一  申請人

「申請人は被申請人の従業員の地位にあることを仮りに定める。被申請人は申請人に対し金二二、三六〇円を仮りに支払え。被申請人は申請人に対し、昭和四二年一〇月一日より毎月一五日かぎり、一ケ月金三五、三八一円の割合による金員を仮りに支払え。訴訟費用は被申請人の負担とする。」

二  被申請人

「申請人の申請を却下する。訴訟費用は申請人の負担とする。」

第二申請人の主張

一  申請人は、昭和三四年八月、被申請人会社(以下「会社」という。)に入社し、以来、会社名古屋支店に勤務していたものであるが、昭和四二年三月一四日、申請外尾関幸三と挙式した。

二  ところが、会社は、(一)昭和四二年四月二八日、申請人に対し、解雇する旨の意思表示をした。かりに、右意思表示がなかつたとしても、(二)会社は、同日、申請人を同年五月一日より臨時勤務者(通称アルバイト)とし、従前の職務に勤務させていたが、同年九月二六日、右雇傭契約を同月三〇日をもつて終了する旨、すなわち解雇の意思表示をした。

なお、会社は解雇という言葉を使わず、申請人の提出した退職願により雇傭契約が合意解除されたと主張しているが、後記のとおり申請人の退職願提出の経過に照らすと会社の行為は実質的に申請人を解雇したことにほかならず、解雇する意思のもとに一貫して行なわれた「構成された解雇」「仮面をかぶつた解雇」というべきである。(女子社員を結婚を理由に明示的に解雇の意思表示とすると違憲の評価を受けるため形式上合意解除ということにして右の目的を達成しようとして退職届の提出を強要し合意解除という体裁を整えたものであり実質上は解雇である。)なお申請人は、同年五月一五日、会社から退職金を受領しているが、これは経済的に困窮していたためで合意解除を承認した趣旨ではない。

三  しかし、右解雇の意思表示は、いずれも申請人の結婚を理由とするものであるから、後記のとおり、男女平等を規定する憲法第一四条および労働基準法の精神に違反し、かつ、憲法第二四条の結婚の自由を侵害するものであるから公序良俗に反し、民法九〇条違反として無効である。

四  かりに、本件雇傭契約は、申請人の退職願が会社に受理されたことにより、昭和四二年四月二八日、合意解除されたものであるとしても、これは次のような理由により効力を生じない。

(一)  強迫による取消

申請人は、昭和四二年三月二二日、会社に対し、退職希望年月日を同年四月二八日とする退職願を提出しているが、これは後記のとおり、申請人が会社から右提出前約三ケ月間にわたり、継続して執拗な威圧的言動を加えられ、更に、会社の意を受けた会社労働組合代議員らからも、会社を退職し、アルバイトに切換えるべきことを強く勧告されたため、やむを得ず会社のいうままに、これを書いて提出したものである。従つて、申請人の退職願提出による雇傭契約解除の意思表示は、民法第九六条にいう強迫によるものであるから、申請人は、昭和四二年一〇月二〇日、会社と全国一般労働組合との団体交渉の席上において、右意思表示を取消す旨の意思表示をした。

(二)  錯誤

申請人が本件退職願を提出するに至つた動機は、後記のとおり会社から結婚したときは、退職する慣行がある旨告げられて退職を要求されたため、申請人において会社には結婚退職制が存在するものと誤信し、その要求に応じなければならないと考えたところにあつた。もし、当時、申請人が、会社には結婚退職制が存在せず、あるいは、それが後記のとおりなんら法的効力を有しないものであることを知つていたならば、本件退職願を提出しなかつたのである。

従つて、申請人の右動機の錯誤は意思表示の内容をなし、民法第九五条の要旨の錯誤に該当するから無効である。

(三)  心裡留保

申請人の本件退職願の提出は、後記のような経過から、申請人において退職する意思はなく、会社も、申請人の真意によるものでないことを知つていたものであり、少なくとも知り得たから、申請人の退職願提出による雇傭契約解除の意思表示は、民法第九三条但書により無効である。

(四)  公序良俗違反

申請人の本件退職願の提出は、会社の結婚退職制によるものである。すなわち、会社はその結婚退職制を維持する意図のもとに、申請人に退職およびアルバイトへの切換の要求をなし、申請人がやむなくこれに応じて提出したものであるから、申請人の退職は、結婚退職制と「相当困果関係」「不即不離の関係」「密接不可分な関係」にあるのである。

そして結婚退職制が公序良俗に反し無効であることは後記のとおりである。

五  結婚退職制の存在

結婚退職制とは、女子労働者が結婚したとき、使用者がこれを理由として当該労働者をその意思に反して退職させるもので、それが労働協約、就業規則、念書などに明記されているか、または慣習ないし慣行として存在するかは問わないのである。ところで、会社には、このような意味における結婚退職の慣習ないし慣行が存在しており、このことは次の事実によつて明らかである。

すなわち、会社は、昭和三八年以来女子社員の採用に際しては、「結婚する際は退社することに同意する」旨の同意書を人事部長宛に強制的に提出させており、労務管理上結婚退職を好ましいものとして制度化し、かつ、日ごろ、女子社員にその旨意思表明しており、また、申請人に対し、会社には結婚後勤務している者はいないと言明している。(右同意書制度施行以来本件紛争まで結婚しても勤めている女子社員は皆無である。なお会社は本件裁判係属後、はじめて右同意書の提出を廃止するに至つた。)

また、会社の労働組合である山一証券従業員組合(以下「従組」という。)は、昭和四二年度代議員総会において、待遇改善等の基本的問題と同列に「結婚退職問題」をとりあげ、会社名古屋支店の女子社員集会においても、「結婚退職の撤廃」をとりあげており、会社の女子従業員間には、本店、支店を問わず、結婚退職制の厚い壁という共通の認識があつた。

右のような会社における結婚退職制は、性別による差別待遇として憲法第一四条の男女平等の原則に違反し、労働基準法第三、第四条の精神に反するばかりでなく、憲法第二四条の結婚の自由を侵害するものであり、また、労働者としての労働権、生存権を侵すものとして、憲法第二五条、第二七条に違反し、公序良俗に反するものというべきである。

六  申請人が会社に対し退職願を提出せざるを得なかつた事情ないし経過は次のとおりである。

(一)  申請人は、結婚後も引続き会社に勤めたい意思をもつていたもので、昭和四二年一月一〇日、会社名古屋支店の女子社員集会において、その旨表明し、同月一二日従組代議員に善処を要望していたところ、同月一三日、会社名古屋支店井手次長より突如呼び出しを受け、結婚の問合せを受けたので、その際、井手次長にも善処を要望していた。

(二)  ところが、同月一六日、申請人は、会社名古屋支店の楠副長、井手次長、杉山次長より、こもごも「山一としては結婚したらやめてもらうことになつているからやめてくれ。」と申し渡された。申請人が引続き、勤務したいと懇願したが、相手にされなかつた。

(三)  同月一七日、会社名古屋支店の女子社員集会が、申請人の結婚後の在職を支店首脳部に要求するため開催されたが、その席上、申請人ら女子社員は、前記楠副長、井手、杉山両次長らから会社には女子につき結婚退職の慣行がある旨告げられ、更には机をたたくなどして「他を斡旋してやるから退めなさい。」「そういう男性を選ぶからだ。」「君達は西川問題を口実に権利闘争をするのか。」などと威嚇された。

(四)  次で同年二月二二日にも、申請人は、井手、杉山両次長から退職の勧誘を受けたので、前同様、引続き勤務したいと懇願したが「結婚するときには、やめてもらうことになつている。」と突張ねられた。

(五)  申請人は、同年三月九日午後七時三〇分ごろ、井手次長宅を訪ね、重ねて結婚後も勤務できるよう懇願したが、逆に井手次長らより同日午後一一時三〇分ごろに至るまでの間、退職すべき旨説得されて、申請人は絶望感と無力感、孤立感のため、ただ泣き伏してしまつた。

(六)  申請人は、同月一〇日、前夜のシヨツクのため、午前中会社を休んだところ、会社から呼び出され、会社名古屋支店応接室で井手次長より「アルバイトとして日当一、〇〇〇円で半年間のみ勤務してよい。これが最大の処置だ。」「会社の金井地区長の決裁だから、社員にすることは絶対駄目だ。」と言い渡された。当時、申請人は結婚式を三日後にひかえて、その準備や仕事のこと、更に、母の病気も重なつて疲労困ぱいの極に達していた。そのうえ従組も運動方針にないとの理由で申請人の退職問題に不協力であつたため、申請人は、井手次長の右申入れに反発する力を失なつていた。

(七)  申請人は、同月二二日、新婚旅行から帰つて始めて出社したところ、直ちに井手次長に導かれて、第一応接室に赴き、そこで、金井地区長等三名の会社名古屋支店首脳者にとり囲まれ、退職届の作成を強要された。そのため申請人は、井手次長から差し出された退職願用紙に、楠副長に口述されるままその指示どおり記載したうえ、やむを得ず署名し、これを井手次長が保管した。

(八)  右退職願には、申請人の押印がなかつたところ、同月二三日、井手次長は申請人の勤務場所に印をとりに来た。

七  以上のとおり、申請人は会社の従業員として、なお雇傭契約上の地位を有するというべきであるが、会社は申請人が退職したとして、申請人の就労を拒絶し昭和四二年五月一日以降、社員としての賃金を支払わない。

申請人の賃金は一か月金三五、三八一円であり、その内訳は昭和四二年四月における固定給与額二七、五〇〇円(同月における賃上げ額二、四〇〇円を含む。)同年二月から四月までの三か月間の時間外手当の平均額三、九二一円、同年一一月の本件申請時における一か月定期券購入による交通費三、九六〇円である。

ところで、申請人は昭和四二年五月一日より同年九月三〇日までの五か月間会社の臨時勤務者として勤務し、計一三四、七四五円の賃金(交通費を除く。)の支払を受けた。

同期間中の申請人の賃金を、前記賃金額(交通費を除く。)で算定すると一五七、一〇五円となるので、その差額は金二二、三六〇円となる。

八  申請人は、会社から支払われる賃金で生活をたててきた。申請人の家族構成は、夫、申請人、子供の三名であり、目下、夫の固定給は四万円、残業手当と家族手当を含めると一か月の賃金は約六万円となるが、夫は身体が弱いため残業もままならず、残業手当がないと一か月の平均月収は約五万円である。(なお昭和四五年五、六月分の夫の収入中居残手当が六二、七五一円、七六、四三五円と増額したが、これは夫が一宮営業所に転勤となり右営業所の社員が欠員のため残業を連日長時間やらざるを得なかつたためである。同年八月現在では残業時間も漸次減少しており平常勤務にもどりつつある。)これに対する家計支出は、家賃、町費等約一万円、食事代を含めた子供の保育料約一五、〇〇〇円、食、衣服費二ないし三万円、夫の小遣および車の月賦代約二万円であり、これに病弱な子供の医療費などを加えると一か月約二、三万円の赤字となつている。右赤字は山一証券連絡会よりの借金によつてしのいでいる現状である。

右車の月賦代とは、申請人の夫が購入した軽四輪自動車の代金であるが、これは現住所が名鉄一宮駅より徒歩で四〇分かかり、バスの便も悪いためと、子供を共同保育所に預けるのに欠くことができないため購入したものである。

以上のとおりであつて、申請人は、会社に対し従業員たる地位の確認請求事件を提訴する準備中であるが、申請人がその勝訴判決まで放置されると、生活の危機など回復しがたい損害を蒙るため、本件仮処分申請におよんだ。

第三被申請人の主張

一  申請人の主張第一項は認める。

二  同第二項中、会社が申請人を昭和四二年五月一日より同年九月三〇日までの間臨時勤務者(アルバイト)として雇傭したことは認めるが、その余は否認する。

三  同第三項は否認する。

四  同第四項(一)中、申請人が昭和四二年三月二二日会社に対し退職希望年月日を同年四月二八日とする退職願を提出したことを認めるが、その余を否認する。

同項(二)、(三)、(四)はいずれも否認する。申請人が退職願を提出するに至つた経緯および会社に結婚退職制が存在しないことは、後記のとおりである。

申請人の強迫による取消の主張については会社が申請人を強迫して退職願を提出させたものではないが、仮に申請人がその主張のとおりの取消権を有していたとしても、申請人は昭和四二年五月一五日退職金を異議なく受領しており、これは民法第一二五条の法定追認にあたるから申請人は同日限り取消権を失つたものである。

申請人の錯誤の主張については、本件退職願の提出が、仮に、申請人において結婚退職制の存在とその法的効力があると信じたことによるものとしても、会社は、申請人からその旨の意思表示を受けたことがなく、その表示がない以上、意思表示の内容に関するものとはいえず、要素の錯誤に該当しない。

また、申請人は会社の勤務年数が約八年に達しているから、過去において、女子社員が結婚後も在職していたこと、また、会社が女子社員の結婚を理由に解雇や退職を強要したこともなかつたことを充分承知していたから、少しの注意を払えば、会社に結婚退職制が存在しないことを知り得た筈であるから、申請人に重大な過失がある。

次に、申請人主張のように退職の意思表示が心裡留保にあたるとしても、会社は、申請人から退職後アルバイトとして勤務したい旨の申出を受け、かつ、退職金の増額要求さえ受けていたのであるから、申請人の真意を知ることができず、知る由もなかつた。

五  同第五項中、会社名古屋支店が昭和三八、三九、四一、四二年の女子社員の採用に際し、申請人主張のような同意書を提出させたこと、従組が昭和四二年度代議員総会で、「結婚退職問題」をとりあげたことは認めるが、その余は否認する。

六  同第六項中

(一)(二)はいずれも否認する。

(三)のうち、申請人主張の日に会社名古屋支店楠副長、井手、杉山両次長が会社名古屋支店女子社員有志と会合したことは認めるが、その余は否認する。

(四)のうち、申請人主張の日に井手、杉山両次長が申請人と面談したことは認めるが、その余は否認する。

(五)のうち、申請人がその主張の日の夜、井手次長宅を訪ね面談したことは認めるが、その余は否認する。

(六)のうち、申請人がその主張の日、午前中会社を休んだこと、井手次長が同日午後三時頃会社名古屋支店の応接室で、申請人と面談したことは認めるが、その余は否認する。

(七)のうち、申請人がその主張の日、新婚旅行を終え会社に出社し、井手次長と第一応接室で面談したうえ、退職願を作成したことは認めるが、その余は否認する。

七  同第七項中、会社は申請人が退職したものと主張し、昭和四二年五月一日以降、社員として賃金を支払わないこと、申請人が会社の臨時雇傭員として、その主張のとおり五か月間勤務し、申請人主張の金額の賃金の支払を受けたことは認めるが、その余は否認する。なお、会社は交通費については、三か月分定期券(名鉄バス、名鉄電車、地下鉄)を現物給付しているので、申請人の場合、その代金の合計は八、三七〇円であるから、一か月平均二、七九〇円となる。

八  同第八項中、申請人の家族構成が申請人主張のとおりであること、申請人の夫は定職があつて収入があり、自動車を購入したことは認めるが、その余は否認する。

申請人の夫の平均月収は、昭和四三年中は金八四、三〇三円、昭和四四年中は九七、八四六円である。昭和四五年度については、五月、六月の収入が、それぞれ一二四、六七六円及び一四六、二六五円であるからこれに夏期及び年末の一時金を加えると平均月収は実に一五〇、〇〇〇円をこえると推測される。かりに右五、六月の収入の相当部分を占めている居残手当が七月以降過去の平均居残手当額(月収の一五%)に減少したとしても同年度の平均月収は一一〇、〇〇〇円を下らない。

ところで、申請人のような家族構成では、その生活費は月額約五万円程度である。昭和四二年四月における名古屋市内における三人世帯の標準生計費が月額四〇、九六〇円であることがこれを裏付けている。

申請人の夫は、昭和四四年六月二七日、新車を三七〇、〇〇〇円で購入しているが、月賦とはいえその支払を一度も遅滞したことなく、結局、このような新車を購入できること自体、申請人らの生活に相当の余裕があることを示している。

仮に申請人主張のように子供を保育所に入所させていたとしても、その主張する金額は疑わしく、また、医療費にしても、申請人の夫加入の健康保険がある以上、その主張する金額は長期入院か手術の場合のほかは考えられないところである。

更に、申請人は、毎月二、三万円の借財をしていると主張するが、右のような収入、生活状態からすれば、そのような必要性は到底考えられない。

かりに右のような借財があつたとしても、右借財の返済を迫られている事実は認められないから右借財がかりに存したとしても保全の必要性は存しない。

以上のとおりで、申請人の夫は、その家庭生活を維持するに足る収入を得ており、申請人の収入がないため生活上著しく困窮しているものとは認められないから、本件仮処分の必要性はない。(なお申請人主張の時間外手当は申請人が現実に時間外労働に従事したときに支払わるべきものであり、交通費も申請人が労務を提供するために現実に会社に出社したときに支払わるべきものであるから時間外手当及び交通費については申請人に被保全権利が認められない。)

九  申請人が会社の社員たる地位を失つたのは、申請人が昭和四二年三月二二日、会社に対し同年四月二八日限り退職する旨の退職願を提出し、これが受理されたからである。すなわち、右雇傭契約は合意解除されたものであつて、会社が申請人に対しその意に反して一方的に解雇したことはない。

また、申請人が会社の臨時勤務者たる地位を失つたのは、その雇傭期間の満了によつて終了したことによるもので、前同様、会社が申請人に解雇の意思表示をしたものではない。

申請人の退職願提出および臨時勤務者としての雇傭契約終了の経緯等は、次のとおりである。

(一)  会社の金井中部地区長兼名古屋支店長は、昭和四二年一月一六日、会社名古屋支店女子社員滝沢みさから「女子社員のことでお話したい」旨の申出を受けた。

(二)  そこで、翌一七日終業後、会社名古屋支店の楠副長、井手、杉山両次長は、申請人を含めた約二〇名の女子社員と懇談した。その席上、女子社員側より「結婚したら退職するという習慣についてどう思うか。」という質問が出されたため、楠副長は「わたしとしては、それは好ましいものと考えている。」旨答えたが、これに対して、女子社員側からは別に意見はでなかつた。そして、その後は、結婚を機会に退職した場合の失業保険金がとりにくいという点や、就職の斡旋、アルバイトについての話題などに移り、申請人若しくは特定の個人の具体的問題について話合われたことはなかつた。

(三)  次で同月一八日、楠副長、井手、杉山両次長は、従組の申出により榊原、大島両組合代議員、前記滝沢及び申請人と会社名古屋支店第二応接室で面談した。その席上、組合側から「申請人は近く結婚するが、結婚退職だと失業保険金がとりにくいので、その代りに約六か月間会社で働きたいから考えてもらいたい。」旨の申入れがあつたので、楠副長は、申請人の真意は退職して失業保険金を受領することにあると推察したが、失業保険金が取得しにくい場合も考え「会社の実情では、結婚を機会に退職される人が多いが、申請人は会社に長く勤務した人でもあるので、退職後、もし失業保険がもらえないような場合に、そのように期間を限つて勤務したいということであれば、アルバイトではどうか。会社がいやなら他を斡旋してもよい。」と提案した。このように右会談は、申請人が結婚を機会に退職することを前提として話合がなされ、その結果、会社においてアルバイトの勤務条件について検討することになり、申請人もこれを了承していたのである。

(四)  その後、同月二二日、申請人から井手、杉山両次長に対し「結婚を機会に退職すると失業保険金がとれないと聞いたから、会社も職業安定所に出向いて失業保険がとれるようにしてほしい。」旨の要望があつたため、両次長はこれを承諾した。

(五)  そして、申請人は、同年三月九日夜、井手次長宅を訪れ、井手次長に対し結婚を機会に退職する場合の退職金の割増を要求し、その話合の最中、従組の本村副委員長、大島、榊原両代議員らも同次長宅を訪ねてきて、申請人に対し「組合が入つて話合つている以上、申請人が単独で交渉しないよう。」いましめ、井手次長に対し「会社が考慮することになつているアルバイトの条件についてはどうなつているか。」とただした。これに対し井手次長は、「現在の給与に近い条件で努力する。」と答え、申請人を含めた出席者全員はこれを了承した。

(六)  会社は、翌一〇日、申請人をアルバイトとして雇傭する場合の条件について検討する結果、右雇傭期間を同年九月末日までとし、日給は一、〇〇〇円、交通費と食事代(一日四〇円)は会社負担とする旨の当時の申請人の月収にほぼ見合う結論に達した。そこで、早速これを従組の本村副委員長に提示したところ、従組は了承した。他方、井手次長は同日午後三時頃申請人に対し、右条件を提示したところ、同じくこれを承諾した。また、その際、申請人から「同年四月中は、社員として勤務したい。」等の申出があつたが、井手次長はこれらの点についても申請人の意向に副うよう努力することを約し、申請人と会社との間に事実上話合は成立したのであつた。

(七)  会社は翌一一日、本村副委員長からの申入れもあり、申請人の退職時間について申請人の申出を承認することとし井手次長は、申請人および同副委員長ら従組関係者数名と会社名古屋支店第二応接室で面接し、会社は申請人が同年四月末日をもつて社員を退職することを了承したこと、また、会社が申請人を退職後同年九月末日までアルバイトとして雇傭すること、その条件はさきに提案したとおりであることを告げたところ、申請人始め出席者全員がこれを了承した。そして、申請人は「新婚旅行から帰つて来たら退職願を提出する。」旨述べていたのである。

(八)  同年三月二二日、申請人が新婚旅行を終えて出社したので、井手次長は、同月一四日の結婚式に招待されたことのお礼を述べ、旅行の模様を聞くため応接室で申請人と対談した。その話の終わつたところで、申請人は、「退職願を書く。」と申し述べ、井手次長が取り寄せた退職願の用紙に快く署名した。そして、申請人は一旦、自席に戻つて印鑑を持参し井手次長席で右退職願に押捺した。

(九)  次で、会社は、同年五月一五日前述のとおり申請人に対し、退職金八万五、三〇〇円を支払い、申請人は異議なくこれを受領した。

(一〇)  他方、会社は、これに先立ち同年四月二八日、申請人を臨時勤務者(アルバイト)として前記条件で雇傭する契約を締結した。

そして、会社は、右契約に基づき申請人を同年五月一日から雇傭したが、その雇傭期間が同年九月末日で満了することは、申請人もこれを了知し、同年九月二二日、上司である新任の彦坂会社名古屋支店営業事務課長にその旨申出ていた位である。

(一一)  ところが、申請人は、同年九月二六日、会社に対し「来年一月には他に就職するところがあるので、それまでアルバイトの契約を継続してもらいたい。」旨の申出をした。会社は、これに対して「約束が九月末日であり、後任者も内定しているので、一応やめてもらう。会社が忙しくなれば、また、お願いする。」旨返答した。

(一二)  しかし、会社としては申請人の要望にこたえるため、本社人事部に対し申請人のアルバイト契約の更新許可を申請したところ、その許可を得たので、前記杉山次長は、同年一〇月三日、申請人に対し昭和四二年一二月末日まで契約を更新する旨伝えた。

ところが、申請人は、これを拒否し、始めて、さきの四月の退職は真意に基づくものではなかつたと主張するに至つたものである。

一〇  会社には、女子社員の意思に反し、結婚を理由として退職させる趣旨の、いわゆる結婚退職制は全く存在しない。会社に勤務している女子社員の大部分は、これまで結婚を機会に退職しているのが実情であるが、このような事実が長年にわたつて累積されて一つの慣行となつているものの、これはなんら強制力を持たないもので、専ら女子社員の自発的な意思のみによつて維持されているものである。

(一)  このことは、次の事実から明白である。すなわち、会社の就業規則または従組間の労働協約にも、女子社員の結婚を退職事由として掲げた条項はなく、会社には、現に結婚後も在職している女子社員がおり、昭和三八年以降、既に退職した者を含む会社に勤務した有夫女子社員は六五名を数えている。(そのうち勤務年数が一年をこえる者は約三〇名である。)そして、会社は、これまで結婚を理由に女子社員を解雇したことはない。

(二)  申請人が結婚退職制の存在を主張し、これを根拠づけるものは、次のとおり理由がない。

申請人主張の女子社員採用時の同意書は、会社の各支店においてその取扱いは区々であつて、大阪地区内の各支店約一〇店舗においては昭和三八年、三九年度において同意書を提出させたことはなかつた。会社名古屋支店においては、前記のとおり四年間、女子社員から人事計画に関するデータを集める目的のもとに、任意提出させたものに過ぎない。従つて、会社は、右同意書の存在により、女子社員に対し結婚を理由に解雇や退職を強要した事実はない。特に、申請人はこのような同意書を会社に提出しておらず、退職についてその存在が問題となつたことはなく、本件に関係がない。

また、会社の一職制が、結婚を機会に退職する習慣は望ましいと個人的意見を表明したことがあるにしても、これは女子社員の結婚後における作業能率などを考慮した一般的な見解を述べたにとどまり、結婚退職制の存在を肯定するものではない。

更に、申請人主張のように、従組が結婚退職問題をとりあげたのは、昭和四一年一二月、いわゆる住友セメント事件の判決があつたことから、一般論としてとりあげたものに過ぎない。会社が結婚退職制を実施していることを前提としてとりあげたものではない。

一一  以上のとおりであるから、本件仮処分は、被保全権利について疎明を欠き、かつ、保全の必要性を欠くものとして失当である。

第四証拠関係〈省略〉

理由

一、申請人は昭和三四年八月に会社に入社し、以来名古屋支店に勤務していたが、昭和四二年三月一四日申請外尾関幸三と挙式したこと、同年三月二二日申請人主張のとおりの退職願を会社に提出したこと、同年五月一五日退職金を受領したこと、同年五月一日から九月三〇日までの間臨時勤務者として稼働したこと、以上の事実は当事者間に争がない。(成立に争のない疎甲第一号証によれば申請人は同年四月一七日婚姻の届出を了したことが認められる。)

してみると他に反証のない本件では申請人と会社との雇傭契約は昭和四二年四月二八日限りで合意解除されたものというべきである。

二、申請人は右合意解除は会社が結婚を理由に申請人を解雇する意図の下に結婚退職制違憲の評価を受けることを免れるため申請人に対し退職届の提出を強要してなされたものであり、その実体に着目すれば解雇に外ならないと主張するけれども、たとえ退職届の提出に関し会社側に申請人主張のとおりの意図、経緯が存したとしてもそれは合意解除の無効ないし取消原因として論ぜらるべきことがらに属することは明白であり、申請人の右主張は採用できない。

三、本件合意解除の効力

(一)  会社における結婚退職の慣行の存否

一般に労働契約関係を律する慣行とは、当該企業の従業員がその企業内においてその慣行を労働関係を律する規範的事実として異議をとどめず承認し、それが事実上の制度として確立していることを要すると解される。

従つて結婚退職の慣行もそれが右の意味における慣行と言い得るためには、単なる慣例であるというに止まらず、進んで前述のように当該企業の従業員において女子は結婚したときは退職しなければならないとの規範的意識のもとに、これを当然のこととして承認し、このようなものとして累積することによりそれが企業内の事実上の制度として確立していることを要する。

これを本件についてみるに、成立に争のない疎甲第二号証、証人堀正子、同山田和子の各証言、右山田証人の証言により成立を認め得る疎甲第九号証の三、第一一号証の一ないし三、第一二号証の一ないし五、第一三号証の一ないし四、証人高相萬夫の証言、右証言により成立を認め得る疎甲第四、第一〇号証、証人尾花清彦の証言、右証言により成立を認め得る疎乙第九号証、証人井手忠博、同長谷川嘉市の各証言によれば次の事実が認められる。

1  会社の女子社員は従来から結婚すれば退職する者が多く、名古屋支店は昭和三八年四月から昭和四二年三月までの間採用内定の女子社員全員につき「入社後結婚するときは退社することに同意する。」旨の会社本店人事部長宛同意書と題する書面を提出させていた。(右事実は当事者間にも争がない。)

2  従組名古屋分会では昭和四一年八月以来毎月一回女子社員集会が行われていたが、右集会において結婚すれば一律に退職する女子社員の現状について再検討の要ありとの意見が論議された。

3  昭和四二年四月二三日従組代議員総会において結婚退職問題について前向きに検討すべきであるとして婦人労働の職務再評価、待遇改善と共に結婚退職の問題が論議された。

4  従組婦人対策専門委員会は昭和四二年一一月ごろ結婚退職問題について「女子社員の長い願望でもあり、結婚退職後すぐ職さがしをしなければならない現実に突破口を開くべきである。」「会社は結婚退社について現状の態度を変える様子はないが、せめて子供が生れるまで勤務したい。」「今後若年婦人労働者の求職難が予想されるが今後の方向として婦人労働の場として証券業の特殊性という考え方を排除して継続勤務を認めて欲しい。」との意見が開陳された。そしてそのころ従組から会社に対し同意書制度を廃止するよう申入がなされ、会社は昭和四三年四月入社の女子社員から同意書提出制度を廃止した。

5  昭和四二年三月初旬申請人の問題に関連し名古屋支店女子社員の有志から本社従組婦人対策専門委員の女子社員に対し「昭和三七年以来名古屋支店においては女子は結婚すれば退職しなければならない慣習が出来た。何んとかこの慣習を打破したいと立上つた。応援を求める。」との書簡を送つたところ、右専門委員から「本社分会では考えられない名古屋分会女子社員の結束は頼もしいが、いかに結婚退職の壁が厚いかをまざまざと見せられた思いがする。〈秘〉事項として結婚退社は基本方針である旨の会社側の意向を確認している。」旨の返書があつた。

6  名古屋支店においては昭和三七年七月以降は結婚後なお勤務する者は皆無となつた。(昭和三七年までは結婚後も勤務する者七名あり、内五名は結婚後一年以上勤務していた。)

以上の事実が認められ、右認定の事実によれば会社名古屋支店においては昭和三八年四月以降昭和四三年三月までの間は女子社員が結婚したときは同意書制度施行以前に入社した者も含めて継続勤務の意思の有無にかかわりなく、一律に退職することを要する慣行が事実上の制度として確立していたことは明らかである。

先に認定した従組女子集会での論議、婦人対策専門委員会の論議等は右慣行の存在を前提としこれを改革しようとする一連の動きとして理解さるべきである。

そして右慣行は自発的に退職する女子社員が多数であることに着目した会社が同意書制度を採用することにより事実上制度化したものであると考えるのが自然であろう。

もつとも証人山田和子の証言によれば申請外山田和子は昭和四三年一一月結婚し、勤務を継続していることが認められるけれども、これは同意書制度廃止後のことに属するから右認定をなす妨げとなる資料とはなし難い。

また証人尾花清彦の証言、及び前顕疎乙第九号証によれば、大阪支店管内では同意書提出制度をかつて一度も採用しない職場が存すること、及び他の支店等で昭和三七、八年から現在に至る間結婚しても一年以上継続勤務している女子社員の事例若干の存することが認められるけれども、これら事実からして直ちに名古屋支店における前記慣行の存在を否定するわけにはいかない。

以上の認定の趣旨に反する証人楠泰臣、同尾花清彦、同後藤義男、同高相萬夫の各証言部分はたやすく信用できず、他に右認定を左右するに足りる証拠は存しない。

(二)  本件退職願提出の経緯

証人堀正子、同山田和子、同楠泰臣、同井手忠博、同大島直良の各証言および申請人本人尋問の結果(第一回)を総合すれば、次の事実を認めることができる。

1  申請人は結婚の近くなつた頃昭和四二年一月一〇日の右女子集会において、従来経済的理由から結婚後も継続して勤務したい旨の希望を持つていたところから、右希望を述べ、話合つた結果「結婚退職制を無効とする住友セメントの判決もあり、頼めば何とかなるのではないか。」「従組代議員に相談してみよう。」ということになつた。

2  そこで申請人はそのころ代議員および会社名古屋支店井手次長に「結婚後も継続して働きたい。」旨希望を述べ、そのための処置を頼んだところ、「いずれも慣行としてやめることになつている。」旨の返事があり、同月一六日には、申請人は会社名古屋支店楠副長、井手次長、杉山次長から「慣例だからやめて下さい。」と言われたので、申請人は同意書を提出していないこと、昭和三七年以前結婚後勤務していた女子社員の例もあること、慣例の例外を認めてほしいこと等を申述べて継続勤務を希望したが、拒否された。そこで申請人は同日終業後女子更衣室においてそこに居合わせた女子社員(約二〇名)に対して右の経緯を話したところ、「会社名古屋支店長に申請人の希望を直接願い出たらどうか。」との意見が出て、会社の女子社員の代表格の滝沢が同支店長に直接懇請に赴いた。

3  右懇請の結果、翌一七日午後五時すぎ会社において楠副長、井手、杉山両次長が出席のうえ、女子社員が三〇名以上参集し、会合が開かれた(右会合の事実は当事者間に争がない。)。右会合で楠副長は女子社員の質問に対し、前記同意書の制度と結婚後継続勤務している前例がないことなどの理由から結婚すれば退職するのが当然である旨言明し、申請人の件については「支店長に相談はしてみるが、会社でアルバイトとして雇傭するか、又は他に就職口を斡旋する等の努力はする。」旨答えた。

4  更に、同月一八日には従組代議員、申請人、楠副長、井手、杉山両次長出席のうえ会合が持たれ、代議員から半年位申請人を継続勤務させて貰いたい旨要望がなされたが、会社側はアルバイトとして雇傭するか、他へ就職の斡旋をするとの方針を変えなかつた。

5  同年二月六日、女子社員多数が従組代議員に対し、組合で申請人の問題をとりあげるべきことを要求したが、代議員は右問題はまだ全国的な問題となつていないこと、名古屋支店だけでとりあげるには問題が大きすぎることを理由として従組としてはとりあげられないとのことであつた。ついで同月一八日従組代議員と申請人を含めた女子社員の間で会合が持たれ、代議員から組合執行部へこの問題を持つていつたが時期尚早であるとしてとりあげられなかつた旨の報告があつたので、申請人らはこの際「組合ニユース」へ投稿しようと申合せ、女子社員の一人が原稿を代議員に手交したが結局「組合ニユース」には登載されなかつた。その後三月初旬には女子社員有志から前述のとおり従組婦人対策専門委員にこの問題を訴えた手紙を送付した。

同年二月二二日に井手、杉山両次長は申請人と面談し(右面談の事実は当事者間にも争がない。)申請人に対して正社員としては勤務できない旨の返答がなされた。

6  同年三月九日夜、申請人は井手次長宅を訪問し(右訪問の事実は当事者間にも争がない。)たところ、井手次長の連絡により従組関係者その他の女子社員も同人宅に赴き話し合いが行なわれ、従組関係者および同次長は申請人に対して、会社を退職したうえ、アルバイトとして勤務を続けることを承諾するようこもごも説得し、申請人は結局説き伏せられた形となり、アルバイト勤務の条件については更に検討することとなつた。

7  同月一〇日から一一日にかけて、会社、従組、申請人の間において数度会合が持たれ、結局従組が提案したアルバイト勤務の条件(日給一〇〇〇円、交通費会社負担、食費一日四〇円支給)、同年四月まで正社員勤務、同年五月から九月までアルバイト勤務とすることで関係者の間で了解が成立し、申請人は新婚旅行から帰り次第退職届を提出することを約した。

8  同月二二日、申請人は新婚旅行を終え、始めて出社し、会社名古屋支店第一応接室に招かれ、そこで金井支店長、楠副長、井手次長に面接し、井手次長の取り寄せた退職願用紙に結婚を事由に退職する旨記載し、同次長にこれを提出した。

右認定に反する証人楠泰臣、同井手忠博および同大島直良の各証言部分は信用できず、他に右認定を動かすに足る証拠はない。

(三)  申請人は右合意解除は錯誤による意思表示であるから無効であると主張するので以下右主張の当否について判断する。

1  会社に結婚退職の慣行の存することは先に認定したとおりであり、右事実と本件退職願提出に至るまでの経緯に徴すれば、申請人は結婚後も正社員として継続して勤務することを希望しその旨会社に懇請したものの会社は結婚退職の慣行の存することを理由として申請人に任意退職すべきことを強く要求し、申請人はやむなく会社主張の慣行に従い、本件退職願を提出したものであると認めるのが相当である。

2  ところで、女子労働者が結婚したときは継続勤務の意思の有無にかかわりなく一律に退職することを要する旨の前記慣行は労働条件につき性別による合理性のない差別待遇をしたことになり、又女子労働者の結婚の自由を合理的な理由なく制約するものである。

従つてこのような慣行は憲法第一四条、第一三条、第二四条の精神に違反するから、結局民法第九〇条に違反し無効であることは縷説を要しない。

3  してみれば、申請人が本件退職願を提出するについて動機となつた結婚退職の慣行の有効性につき、申請人において錯誤があつたことになる。

そして先に認定したとおり、会社は右慣行の存在を理由に申請人に対しこれに従うべきことを要求し、申請人はこの要求に応じて退職願を提出したのであるから、右動機は表示されたものというべきであり、申請人が右慣行は無効であるからこれに従う義務はなく、結婚後も継続して勤務する権利のあることを知つておれば本件退職願を提出しなかつたことは余りに明白であるから、結局申請人の退職願の提出による本件合意解除の意思表示には民法第九五条の法律行為の要素の錯誤があつたことになり、無効といわざるを得ない。

4  又申請人は会社に対し正社員としての継続勤務を要求したが結局会社主張の慣行に従わざるを得ないと思うに至つたのであるから、申請人の前述の錯誤につき重大な過失があつたとはいえない。

(四)  以上説示のとおりであるから申請人のその余の主張について判断するまでもなく本件合意解除は無効である。

四、従つて、申請人は、昭和四二年五月一日以降もなお会社の社員の地位にあるというべきであるが、会社は同日以降申請人は退職したとして正社員としての労務の受領を拒絶していることは弁論の全趣旨より明らかである。してみれば申請人は同日以降会社に対して反対給付請求権を有するというべきであり、右請求額は原則として労働基準法第一二条所定の平均賃金額により算定するのが相当である。そして、成立に争いがない疎甲第五号証の三ないし六によれば申請人の昭和四二年四月末日現在の固定給与額は二七、五〇〇円(昇給分二、四〇〇円を含む。)同年二月ないし四月分の時間外手当の一か月平均額は三、九二一円であることが認められる。(弁論の全趣旨によれば時間外手当は前月分を一括支払う建前となつていると認める。)なお交通費については、二、七九〇円の限度で当事者間に争いがない。

従つて、申請人の一か月分の反対給付請求権の額は三四、二一一円である。

五、よつて進んで本件仮処分の必要性について考えるに成立に争のない疎甲第一四号証、第一五号証の一、二、第一六号証の一ないし四、疎乙第一三、一四、一七号証の各二、申請人本人尋問の結果(第一、三回)によれば次の事実が認められる。

申請人の家計は申請人が昭和四二年九月三〇日に勤務をやめてからは東邦生命に勤務する夫申請外尾関幸三の収入に依存していること、その収入の一か月の手取額は、昭和四二年三月三三、七七八円、昭和四五年三月五八、八三七円、四月六三、六六二円、五月一一二、五五〇円、六月一三一、二三九円、他に四、五月の差額追加分二二、三一三円であること(税込で賞与を含めた年間の総収入は昭和四二年約八〇万円、昭和四三年約一〇一万円、昭和四四年約一一七万円)昭和四五年四月までは毎月約一〇、〇〇〇円ないし三〇、〇〇〇円の生活費の赤字を生じていたが、申請人は昭和四三年五月以降名古屋証券取引所内の山一問題連絡会から毎月約二五、〇〇〇円の援助金(性質は借財であるが返済期の定めなし)を受けていること以上の事実が認められる。

右事実と成立に争のない疎乙第一五号証により認められる申請人の夫幸三は昭和四四年六月二七日に約三七〇、〇〇〇円の新車を購入していること(但し一五〇、〇〇〇円は旧車の下取)を勘按すると本件口頭弁論終結の日である昭和四五年八月三日までの反対給付請求権については仮処分の必要性は認められない。

しかし、同年八月四日以降の反対給付請求権については、山一問題連絡会からの援助は今後も確実に継続されると保障されているわけではないことと、成立に争のない疎甲第一七号証、前顕疎乙第一七号証の二、申請人本人尋問の結果(第三回)により認められる次の事実すなわち夫幸三の昭和四五年五、六月の給与が前記のように上昇した原因は居残手当が五月分六二、七五一円、六月分七六、四三五円と増加したためであり、右増加は勤務先の東邦生命一宮営業所の社員欠員に伴う特殊事情に基づく臨時的現象であり、今後かかる状態は解消され、居残手当も減少する見込であることとを考え併せると、仮処分の必要性は肯認すべきである。

六、以上の次第であるから本件仮処分申請は、申請人が現に会社の従業員の地位にあることを仮に定めることを求める部分及び昭和四五年八月四日から毎月一五日限り一か月三四、二一一円の割合による金員の仮払を命ずることを求める部分は理由があるから認容し、その余は失当として却下することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、第九二条但書を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 松本武 角田清 北島佐一郎)

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